はじめに|“公家大名”では終わらせない、義元再評価の時代
今川義元と聞くと、「桶狭間の戦いで織田信長に討たれた敗将」や、「お歯黒・公家風で軟弱」といったイメージを持つ方が多いかもしれません。しかし、近年の研究ではこうした評価が大きく見直されつつあります。
事実、今川義元は、当時としては革新的な政治制度や外交戦略、そして「人材重視」の組織運営を行っていた優れたリーダーでした。本記事では、今川義元が遺した「見えにくい遺産」に焦点を当てながら、彼のリーダー哲学がどのように現代に活かせるのかを考えてみましょう。

義元の「分国法」が示す公正な統治制度
今川義元が遺した最大の功績の一つは、父・今川氏親の代から続く「分国法(ぶんこくほう)」を洗練させ、領内統治に活かしたことです。これは、現代でいう地方自治体の「条例」や企業の「コンプライアンス規程」に近い存在でした。
分国法とは、戦国大名が自領を治めるために定めた法令集で、今川家では《今川仮名目録》という名前で知られています。義元はこの法令を単なる統治の道具としてだけでなく、「家臣・領民にとって安心できる生活基準」として活用しました。
✅ 用語解説:分国法
戦国大名が自分の領地(国)に定めた法律。領民や家臣の行動規範を定め、無秩序な戦国時代の中で秩序を維持する役割を果たした。
文武両道の人材登用と教育思想
義元は、自身が「京都の名門・建仁寺」で学んだ教養を重視しており、文武両道の人材育成を推進しました。家臣には教養を求め、文書作成能力や外交交渉力の高い人材を多数登用。これが今川家の統治力と安定感を支える柱となりました。
有名な例としては、後に徳川家康の軍師となる「太原雪斎(たいげんせっさい)」がいます。彼は義元の政治顧問であり、学僧としての教養と現実的な軍略を兼ね備えた稀有な存在でした。義元はこのような人材を登用し、「学びのある組織文化」を形成していたのです。
✅ 用語解説:太原雪斎
今川家の外交顧問・軍師。義元の信任が厚く、今川家の内政・軍事・外交の頭脳的役割を果たした禅僧。
駿府の発展と都市計画的ビジョン
義元は静岡県・駿府(すんぷ)を拠点とし、これを単なる城下町ではなく、交通・商業・軍事の中核都市として整備しました。駿府には物流の中継地としての機能があり、商人や職人が集まる経済拠点として発展。
義元はその都市設計においても先見性を発揮しており、町割り、水路、関所などを整備。これらは現在の「都市開発」「地方創生」に通じるものがあり、彼の統治は領民の生活の利便性を重視したものでした。
戦略的な婚姻・同盟外交
義元は、戦国大名としては非常に“外交上手”でもありました。とくに、隣接する甲斐の武田信玄・相模の北条氏康との間で築いた「甲相駿三国同盟」は、東海・甲信地方の安定をもたらしました。
さらに、織田家との関係を強化すべく、今川家に人質としていた松平元康(後の徳川家康)を通じた調整を図ります。義元は家康をうまく育て、今川家の重臣として使おうとした形跡も見られます。
このような長期的な人材戦略と外交政策は、現代の企業経営における「人的資本経営」や「リスク分散型のパートナー戦略」に非常に近い考え方です。


現代ビジネスに通じる義元の哲学
今川義元の政治姿勢・組織運営から学べる“現代ビジネスのヒント”を、以下の通りまとめます:
✅ 1. 明文化されたルールの重要性(=分国法)
→ 明確な規則が、組織の混乱を防ぎ、公平性を保つ土台になる。
✅ 2. 教養と能力のバランスを重視した人材登用
→ “肩書き”より“本質的スキル”を評価する目が組織を強くする。
✅ 3. 都市と地域をともに育てる視点
→ 地方創生や都市政策も、長期的なビジョンと具体施策が必要。
✅ 4. 戦略的な同盟・提携による生存戦略
→ 無理に敵を増やさず、協調によって自社の影響圏を安定化させる。
✅ 5. 将来を見据えた人材育成と継承計画
→ 後継者を計画的に育てることが、組織の永続には不可欠。
まとめ|らぼのすけ的・今川義元から学ぶ“賢い経営者像”
ぼく「らぼのすけ」は、今川義元の姿を学びながら、“派手ではないけれど本質を押さえた賢将”の姿に強く共感しています。
義元は「戦って勝つ」よりも「治めて残す」を選んだ人物でした。桶狭間の敗北だけで彼を評価するのではなく、その前に築いた豊かな都市と信頼の組織が、彼の“真の遺産”だったのではないでしょうか。
現代においても、短期的な成果より「どんな組織を未来に残せるか」という視点が大切です。静かに、しかし確かに“賢さ”を積み上げていく──それこそが、義元が遺したリーダー哲学だと思います。
次回からは、番外編として「今川義元ゆかりの地をめぐる戦国さんぽ」企画もスタート予定!お楽しみに!
それでは、また次の“戦国知恵袋”でお会いしましょう!