東海戦線、ついに動く──家康と信長の戦略的連携
こんにちは!戦国×現代ラボの歴史ナビゲーター、らぼのすけです。
前回の記事で、家康と信長が結んだ「清洲同盟」の背景と意義をお伝えしました。あの同盟によって、家康は三河統一に集中でき、信長は美濃(斎藤家)を攻略する足場を得ました。
そして、信長が美濃を平定すると、いよいよ二人は「次の標的」へと矛先を向け始めます。それが今川家の旧領=遠江と駿河です。
今回の記事では、この遠江・駿河侵攻の経緯と、家康がこの戦線で果たした役割、そして彼の戦略的な成長に迫っていきます。
今川家の没落と遠江・駿河の空白地帯
義元亡き後、混乱の今川家
桶狭間の戦いで今川義元を失った今川家は、義元の息子・氏真の代になって急速に求心力を失っていきます。
その最大の理由は、周辺大名の動きと、家中の分裂でした。武田信玄が甲斐・信濃を制圧して南下を狙い、北条氏康は相模で力を伸ばしていた。そんな中、遠江・駿河は“取る者勝ち”の空白地帯になりつつあったのです。
信長と家康の“次の一手”
信長にとっても家康にとっても、この地は次の成長のカギでした。
- 信長:美濃からさらに東へ進出し、上洛への道を広げたい
- 家康:三河に隣接する遠江を得て、より堅牢な地盤を築きたい
両者の思惑が一致したとき、遠江と駿河の支配権をめぐる戦いが本格化するのです。
遠江侵攻──家康の「地の利」を活かす動き
浜松を本拠に、武田・今川に備える
家康が最初に動いたのは遠江(現在の静岡県西部)です。三河から直結するこの地は、まさに「信長と家康の連携プレー」の出発点でした。
家康は1568年、浜松城を拠点として遠江支配に着手。この城は、東海道の要衝であり、信長の支援を受けながら、着実に遠江の国衆を取り込んでいきます。
「駿府を狙う武田」との板挟み
しかし、遠江を手にするということは、甲斐の武田信玄と直接対峙する構図でもありました。
信玄は駿河侵攻を進めており、やがて駿府を手に入れようとしていました。家康にとって、遠江の支配は「西の信長」と「北の信玄」という二大巨頭に囲まれる試練でもあったのです。
駿河侵攻──信長と家康の協調と駆け引き
駿河の地をめぐる微妙な同盟関係
駿河は、義元が拠点にした「今川家発祥の本拠」。武田信玄は、今川氏真を駿河から追放し、事実上駿河を武田領化しました。
家康としては、駿河に深入りすれば信玄と正面衝突せざるを得ない。しかし、遠江だけを手にするだけでは不十分。そこで家康は信長との協調をさらに深め、武田との均衡を狙うのです。
現代で言えば「アライアンスの再定義」
ここで家康は、信長との関係を単なる同盟ではなく“戦略的な共同経営”のように捉え直します。
互いの利害を再確認し、「相互に独立しながら、対外戦略では一致する」というスタイルを確立。これは、現代の企業間提携にも通じる「ゆるやかな連携モデル」です。
家康の東海戦略──柔軟な戦略調整力
強者に囲まれた中でのサバイバル術
信玄・信長という二人の巨大なリーダーに挟まれた家康。しかし家康の真骨頂は、どちらにも巻かれずに自分のポジションを守る力にありました。
・必要なときは信長に全面協力
・しかし、駿河侵攻の“手伝い”には深入りしない
・自領の防衛と内政強化を最優先にする
この「距離感のマネジメント」が、家康の戦略家としての成長を象徴しています。
家康の「静かなる決断力」
家康は、大胆な動きではなく「地道な調整と根回し」を続けました。
裏を返せば、信長の急進性に振り回されず、自分の戦略を貫くという強さでもあります。
まとめ:「東海戦線」が家康を育てた
遠江・駿河侵攻の過程は、家康にとって“調整力の鍛錬”の時期でした。
武力ではなく、信頼と交渉の積み重ね。信玄・信長という強力な個性を持つ武将の間で、自分の役割を見出し、譲らないものを守る。
この時期に家康が培った“地味だが強いリーダーシップ”は、やがて関ヶ原・江戸幕府の基礎へとつながります。
次回は、家康と信長の「同盟深化」の象徴となる「長篠の戦い」を通じて、家康の成長の最終段階をお届けします!
ナビゲーターは、川越出身の戦国オタク「らぼのすけ」でした!