信長包囲網と上洛戦略:西上作戦の歴史的背景
戦国時代も終盤にさしかかる1570年代、天下統一を目前にしつつあった織田信長に対抗し、各地の有力大名が連携して形成したのが「信長包囲網」でした。足利義昭(室町幕府最後の将軍)を頂点に、武田信玄・浅井・朝倉・本願寺などが含まれたこの連携網の中心で、軍事的・戦略的な重責を担ったのが甲斐の虎・武田信玄です。
この時期、信玄が掲げたのが「上洛(じょうらく)」──京都への進軍です。形式的には将軍・義昭からの要請に応じた行動でしたが、その実態は「信長を排除し、自らの覇権を確立する」ための政治的・軍事的行動だったと考えられます。
この戦いは信玄の生涯最大級の国家プロジェクトとも言えるもので、「西上作戦」と呼ばれています。
家康との激突:三方ヶ原の戦い
信玄の西上作戦で特に重要なのが、徳川家康との激突──1572年末に起きた「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」です。この戦は、武田軍が三河(現在の愛知県東部)まで進出し、徳川家康を浜松城から誘い出して撃破したものです。
圧倒的な兵力差と、巧みな布陣によって武田軍は徳川軍を打ち破り、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰るという大敗を喫しました。家康が後にこの戦いの姿を自画像として描かせた「しかみ像(苦悶の表情を浮かべた肖像)」は、彼の屈辱と学びの深さを象徴する逸話です。
ここで信玄が見せたのは、力でねじ伏せるのではなく「動かずして動かす」戦術。敵を誘導し、心理を揺さぶり、先手を取る──まさに戦略の鬼とも言うべき真骨頂でした。

なぜ信長と戦わず、引き返したのか?
三方ヶ原で勝利した信玄ですが、続く長篠や尾張方面への本格進軍は行われず、そのまま軍を引き返しています。なぜ信長との直接対決を避けたのでしょうか?
最大の理由は、信玄自身の体調悪化にあります。1573年春、信玄は陣中で重病に倒れ、帰国の途上で「病没(びょうぼつ)」しました。西上作戦の途中で志半ばで倒れたことは、武田家にとって大きな痛手となりました。
この際、信玄は自らの死を三年秘匿するよう命じたと言われています。これは、家臣団の動揺や外敵の攻撃を避けるための戦略的判断であり、現代で言う「情報統制」や「組織の安定性維持」に通じる発想でした。

勝頼へのバトンと組織継承の難しさ
信玄の死後、その跡を継いだのが四男の武田勝頼です。勝頼は有能な武将ではありましたが、信玄ほどの政治的カリスマ性や全体統治力には乏しく、やがて長篠の戦いでの大敗を契機に武田家は凋落していくことになります。
信玄の晩年は、軍事戦略だけでなく「家の継続」をいかに実現するかという課題とも向き合っていた時期でもありました。勝頼に何を託し、どのような準備をしていたのか──これは、現代企業における「後継者育成」や「経営の世代交代」の難しさと重なります。
現代ビジネスに生かす「戦略的撤退」と継承マネジメント
信玄の西上作戦から私たちが学べる現代ビジネスへの教訓は、以下のような点です:
- 上洛=本丸を目指す戦略的ビジョン
→ 組織の中長期的な目標を明確に掲げ、そのためのリソース配分やリーダーシップを行う。 - 三方ヶ原の戦い=局所勝利の戦略設計
→ 大きな成果を得るためには、相手の心理や動きを読み、局地戦での勝利を重ねる設計力が求められる。 - 病没と情報統制=不測事態への備え
→ トップの離脱に備えた組織設計、情報共有のルール、リーダー不在時の代行体制を整える。 - 勝頼への引き継ぎ=後継者育成と組織文化の継承
→ カリスマに依存せず、文化や価値観を組織全体に共有することで、継続的な成長を目指す。
用語解説(初心者向け)
- 上洛(じょうらく):京都に上ること。戦国時代には将軍や天皇への謁見、あるいは政権掌握を意味した。
- 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい):1572年末に、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦い。信玄が勝利した。
- 病没(びょうぼつ):病気によって亡くなること。
まとめ|らぼのすけ的・戦略に“引き際”を持て
ぼく「らぼのすけ」は、信玄の西上作戦を調べていて、「攻めるだけでなく、引くことの意味」について深く考えさせられました。
戦国時代の武将は“戦って勝つ”ことだけが評価軸ではありません。信玄のように「勝つべき時に勝ち、退くべき時に退く」冷静な判断力こそ、現代にも通じる戦略眼なのだと思います。
そして何より、カリスマの去ったあとにも残る仕組みをどう作るか。これはビジネスだけでなく、家族や地域など、あらゆる「人の集まり」にとっての永遠の課題ですよね。
次回は、信玄の晩年と「死の美学」──どのように最期を迎えたのか、そして後世に何を残したのかに迫ってみようと思います!
それでは、また次の“戦国知恵袋”でお会いしましょう!