三河一向一揆とは何だったのか?
徳川家康(当時は松平元康)の若き日々に起きた最大の危機──それが「三河一向一揆(みかわいっこういっき)」です。この一揆は、1571年から1573年にかけて三河国(現在の愛知県東部)で本願寺門徒たちが蜂起した事件で、家康の支配体制を根底から揺るがすものでした。
▷「一向一揆」とは?
「一向一揆」とは、浄土真宗(一向宗)を信仰する門徒たちによる武装蜂起のこと。全国的には加賀や越前でも発生しており、「信仰を守るために武力で戦う」宗教的正義感が特徴です。
三河の場合も、一向宗の信仰心に支えられた民衆や武士が家康に反旗を翻したのです。しかも、その中には家康の家臣も多数含まれていました。これが家康にとって、単なる反乱ではなく「身内の内乱」であったゆえんです。
家康、最大の苦悩──“信仰”と“忠義”の板挟み
家康はなぜ、一向宗の門徒たちと衝突することになったのでしょうか?
もともと三河は一向宗の信仰が強く、地元の農民や地侍の間に広く根付いていました。家康は支配体制を確立する過程で、一向宗の勢力が自らの統治を妨げると判断し、宗教政策を強化しました。
しかしこの政策が、門徒たちの強い反発を招いたのです。さらに家康の側近の中にも一向宗門徒が多数おり、彼らが「信仰を取るか、主君への忠義を取るか」という苦渋の選択に迫られた結果、一揆は「内部崩壊」の様相を呈することになります。

「裏切り者」はどう処断されたか?
一揆では、家康の重臣・渡辺守綱や本多正信らが一時離反する事態にまで発展しました。特に本多正信は門徒側に与し、一揆勢として家康と戦います。
家康はこの事態に対して冷静かつ厳しく対処します。参加者の中には処刑された者も多く、家臣団の粛清も実施されました。しかし一方で、**赦免・復帰を認める「再登用政策」**も行われました。後に本多正信が復帰し、江戸幕府の政治顧問として活躍することは、その象徴的なエピソードです。
ここに、家康の**「妥協と寛容」**のバランス感覚が表れています。

一揆終結後に行われた「家臣団改革」
三河一向一揆を経て、家康は家臣団の再編に着手しました。
▷ 年功序列から能力主義へ
それまでの家臣団は、家に仕える年数や血縁による序列が重視されていましたが、家康は実力や忠誠心に応じた評価制度を整備。若手や中途参入でも能力があれば昇進できるようになったのです。
▷ 譜代・新参のバランス構築
また、譜代(ふだい)=代々仕える家臣と、新参(しんざん)=新しく仕える家臣との間に壁ができないよう、職責の配分や人事制度を見直しました。これにより、組織としての柔軟性と持続性が向上しました。
家康の“信念”と“現実”のマネジメント
この一件を通じて見えてくるのは、家康の信念の強さと、妥協する現実感覚の共存です。
一向宗に対する政策は一貫しており、「信仰が支配を妨げるなら是正する」という判断にはブレがありませんでした。しかし同時に、「人材は使えるなら使う」という柔軟さも持ち合わせていました。
これは、**「原則を持ちつつ、現実と調整する」**という、極めて高いレベルのマネジメントです。
【現代ビジネスに活かす】信念と妥協のバランス思考
徳川家康の三河一向一揆対応は、現代のビジネスにおいても重要な示唆を与えてくれます。
✅ 1. 信念に基づいた軸のあるリーダーシップ
どんなに組織が混乱しても、家康のように「自分の判断軸=信念」を持つことは、組織をまとめる上で不可欠です。
✅ 2. 組織の危機時における“赦し”と“処断”の使い分け
すべてを排除せず、再登用の道を残すことは、組織の再建において人材損失を最小限に抑える賢いやり方です。
✅ 3. 家臣団改革に学ぶ“人事制度”の見直し
年功序列にこだわらず、能力と成果を正しく評価する制度設計は、現代の企業経営にも欠かせません。
まとめ|“苦境”を乗り越える真のマネジメントとは?
三河一向一揆は、徳川家康にとって「統治の理想」と「現実の矛盾」に直面する試練でした。しかし家康は、そこから逃げずに信念と妥協を両立させ、組織を再編していきました。
現代のリーダーにとっても、「理念を守りつつ現実に対応する」ことは避けて通れないテーマです。危機のときこそ、「どこを曲げ、どこを守るか」という判断が問われます。
ぼく「らぼのすけ」としても、家康のような“ブレない軸”を持ちつつ、しなやかに対応できるリーダーを目指したいと思います!
▶ 次回予告
次回は「第3回:長篠の戦いと武田氏滅亡|信長との連携と対等な共闘」をお届けします!
お楽しみに!