独立した家康が最初に直面した「味方の敵」
こんにちは!戦国×現代ラボの歴史ナビゲーター、らぼのすけです。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、松平元康(後の家康)は岡崎に帰還。ここから家康の“独立戦国大名”としてのキャリアが始まりました。
しかし独立とは言っても、突然すべてが自由になるわけではありません。むしろ、自家の中に潜む矛盾や火種が浮き彫りになるのです。
今回のテーマは、家康が直面した「三河平定戦」=味方の中にいる敵と戦った日々。
織田信長や武田信玄といった「外敵」ではなく、かつての部下・家臣・親族といった「内側」とどう向き合ったのか?
その過程で家康が築いた“組織”と“信頼”は、のちの江戸幕府にも通じる基盤となっていきます。
三河統一の敵は、かつての味方だった
今川の遺産と松平家中の分裂
家康が岡崎に戻ったとき、三河の松平一族は一枚岩ではありませんでした。
もともと松平家は分家・親族・地侍が複雑に絡み合う“ゆるやかな連合政権”のような形で統治されており、家康(元康)が直轄の主人として君臨するには時間が必要でした。
さらに問題だったのが、今川家に恩義を感じている家臣層の存在。特に旗本層や中級武士の中には、義元への忠誠を貫こうとする者も多く、「独立=裏切り」とみなす動きもあったのです。
一向宗門徒と三河一向一揆の勃発
そんな中、決定的な火種となったのが、三河一向一揆です。
これは浄土真宗(一向宗)の門徒たちが、家康の方針に反発して一斉に蜂起した事件で、一揆勢の中には家康の家臣やその家族も含まれていたことが特徴です。
つまり、「内なる敵」との内戦。しかも信仰や倫理を伴った闘争であり、武力だけで鎮圧できるものではありませんでした。
「忠義とは何か?」を突きつけられた家康
家臣団を試す「踏み絵」のような状況
三河一向一揆に際して、家康は家中の家臣に対して「信仰を捨てるか、家を出るか」という究極の選択を迫ります。
このとき離反した者、悩みながら残った者、家族を失った者──様々な反応があった中で、家康は「信頼できる本当の家臣団」を選別していくのです。
結果、三河からは多くの忠臣が育ち、のちの「徳川四天王」「徳川三傑」と呼ばれる人物たちがこの時期に台頭します。
現代で言えば「創業期のスタートアップ整備」
この過程は、まさに企業創業期の“チームづくり”と酷似しています。
理念に共鳴し、本当に苦しい時期を共に乗り越えたメンバーだけが残る。その後の会社の「文化」や「信頼構造」は、こうした“初期の危機”によって生まれるのです。
家康もまさにそのパターンでした。三河一向一揆を乗り越えたメンバーとの関係性は、生涯続く「無言の絆」となっていきます。
三河統一の先に見えた「戦略的な人材配置」
家康の“人の使い方”が変わった
この一連の出来事を経て、家康は「能力重視」の姿勢を強めます。
・裏切っても才能ある者は再登用(例:大久保忠世)
・元敵でも味方になれば寛容に受け入れる
・信仰の自由と政治の分離を試みる
こうして、家康は「忠義一辺倒」から「実力と信頼のバランス」を重視するリーダーへと進化していきます。
現代に通じる“柔軟なマネジメント思考”
かつての戦国武将は、裏切り=処刑、という単純な構図でした。
しかし家康は、過去の行為より、未来の忠誠を重視します。これはまさに、現代の人材マネジメントに通じる視点です。
履歴書ではなく「これから何ができるか」で人を見極める。信玄や信長とは異なる、「育てる政治家」としての家康像がここで形になり始めます。
まとめ:三河の地で育まれた“徳川組織”の原型
三河平定戦は、外との戦ではなく「内なる矛盾」との戦いでした。
この試練の中で、家康は単なる武将ではなく政治的組織運営者=国家経営者へと変化していきます。
・信頼とは何か?
・忠義とはどこまで貫けるか?
・組織の中で「対話」と「決断」をどう両立するか?
現代の経営にも直結するヒントが、そこには詰まっています。
次回は、三河を制した家康がいよいよ西へ動き始める第一歩=織田信長との本格同盟について解説していきます。
それではまた、戦国と現代をつなぐ旅でお会いしましょう!
ナビゲーターは、川越出身の戦国オタク「らぼのすけ」でした!